コメットハンター

今日は三枝義一さんのお葬式だった。彗星を二つも発見し、その彗星に名前が付けられた人で、プラネタリアンとしても活躍した人だ。彗星には独立発見した人の名前がつけられるが、最大で上位3人までと決められている。三枝さんが発見し名前が付けられたのは、1975年の「鈴木・三枝・森 彗星」と1983年の「菅野・三枝・藤川 彗星」の二つ。三枝さんは彗星に名前が付けられた日本人として25番目の人。現在に至るまでにわずか54人しかいない極めて希少価値のある名誉を2度も獲得している。それほど貴重なことだから、その栄誉を得ることは並大抵の努力では不可能なことだ。お話を聞けば聞くほど、その努力に圧倒された。
僕が甲府に引っ越してきてからまだ14年目だが、三枝さんとのお付き合いは意外にももっと長い。社会人になってそろそろ1年という1988年の2月、日本プラネタリウム研究会でお会いしたのが最初だ。三枝さんは総会の議長さんだった。名前を聞いて驚いた。「あの三枝さんだろうか」と。
1983年、僕は浪人生活を終えて晴れて大学生となり、大学で出会った先輩方とともに再び星を見始めた頃のことだった。五月に立て続けに日本人が彗星を発見した。一つが「アイラス・荒貴・オルコック 彗星」そしてもう一つが「菅野・三枝・藤川 彗星」だった。「あの三枝さん」とは、この彗星の発見者である三枝さんのことだった。
どの研究会でも、概ね夜には懇親会があり、それが終わるとどこかの店かホテルの部屋で少人数に別れた飲み会が続くものだ。僕もどこかで飲んでいろいろな話を聞き、寝床の部屋に戻った。すると部屋は鍵が開いていて、3人の人がウイスキーの瓶を真ん中にして車座になって飲んでいた。僕と同室の釧路のGさん、高松のUさん、そして甲府の三枝さんだった。「おー、ようやく若けえのが戻って来やがったな」、初めて偉大な彗星発見者から掛けられた声はそんな内容だった。三枝さんはすっかり出来上がっていた。Gさんは「いい話をたくさん聞いたよ」と穏やかな声で言った。Uさんもニコニコしていた。二人の言葉と表情から、三枝さんはスパイスの効いた言い方をする人なのだと理解した。
それからは、戦後の望遠鏡事情などについての話を、夜が更けるまでお聞きした。GさんとUさんはすっかり聞き役だった。きっと最初からそのつもりだったのだろうと思う。ふたりとも僕とは初対面だった。二人は僕が来る前に三枝さんの彗星発見談を聞くことができたのかもしれないが、僕が部屋に戻ってからは話が昭和20年代のことになり、残念ながら彗星発見談まで年代が進む前にお開きとなってしまった。もちろん、その話も面白かった。
写真の黒い反射望遠鏡は、三枝さんの自作による15センチのコメットシーカー(彗星探索用の望遠鏡をそんな風に呼ぶ)で、鏡筒に、発見した二つの彗星の「1975K」「1983E」という当時の仮符号が書かれている。今ではそれぞれ「C/1975 T2」「C/1983 J1」と符号されている。望遠鏡の左にあるポスターは、2006年に山梨県立科学館で投影したプラネタリウム番組で、彗星の科学とともに彗星を探し続けるコメットハンターを題材にした作品。この作品の製作については、三枝先生(普段はそう呼んでいる)にたっぷり取材もしたので、後日ご紹介したい。