三宅島

8月1日、竹芝桟橋を出発してまもなく、デッキに出た。8月1日の日記に書いたように、東京湾を囲む明かりが美しく、我々の船出を見送ってくれているかのようだった。あの明かりはどのあたりの明かりかな、などと考えながら次第に都会から離れてまばらになっていく明かりを辿っていた。
とにかく寝るのが大切、と先輩から言われて来たこともあり、船室に戻って背もたれをいっぱいに倒した。でもなかなか眠れない。しかもクーラーが過剰に効いていて寒いほどだ。長袖長ズボンに着替えてもなお寒い。何度かうとうとしたが、たまらず外に出た。でもまだ真っ暗だった。小雨が降っているようでじんわりと濡れてくる。そんな様子だからもちろん星など出ていない。仕方なく船室に戻って寝る。
またしばらくの間うとうとし、もう一度デッキに行く。少しは寝ていたのだろう、夜はすでに明けていた。でも、天気は悪くて小雨が降っている。やがて船は三宅島に接岸した。
船が着いたのは大船戸港(伊ヶ谷港)、島の西側にある港だ。波が強く、防波堤に当たって高いしぶきを上げていた。埠頭では、東京からのコンテナを手際よくさばくフォークリフトの名人芸が展開していた。帰りの船が接岸したのは三池港だったから、僕は今回の海洋道中で三宅島の港を二つ見ることが出来た。

三宅島は西暦2000年夏、大きな噴火を起こした。そして有毒な火山ガスの噴出が続いたため、全島民が避難することになった。それから5年もの間、島民たちは島へ戻ることが許されなかった。火山噴火は、島民の生活、地域のお付き合い、そして学校の友だちを引き裂いた。5年後に全てが元に戻ったわけではなく、事情で島に戻らなかった人も少なくないという。
行きも帰りも、僕は噴火の跡を探した。まだ赤茶色の溶岩が覆い、植生が戻っていない区域があちらこちらに見られた。上の写真の奥に見える岬の向こう側が「阿古地区」になる。当時のニュースで何度も取り上げられた地名だ。阿古地区には溶岩流が襲った。

三宅島は8月18日に取り上げた御蔵島よりもなだらかな印象だ。近年の歴史の中で、海に洗われる以上に火山が噴火して噴出物を出していたのだろう。下の写真の三池港から見えた御蔵島(9日の帰りの便で撮影)と見比べると良くわかる。
船は港を出ると、しばらく島の海岸線に並行するように航行した。ところどころに山から流れ落ちてきた溶岩の跡を見ることが出来た。三宅島の様子を見て、まさに地球は活動しているということを実感することが出来た。でも、わくわくするというよりも、なんだか恐ろしくなった。