水利権

近所の川の様子。本流に堰が設けられ、その場所から右岸の護岸に沿って緩やかな導入路が付けられている。十数メートルほど下流行くと、川の水面と導入路の水面は、高さが1メートル以上も違ってくる。そして導入路を流れた水は、護岸に開けられた穴からこぼれて田んぼへと落ちる仕掛けだ。
水利権というのは、とにかく大昔からあるもので、農家それぞれにとっては死活問題だ。数年前、戦後の農地開拓について書かれたものを読む機会があった。戦前、夢を描いて満州に渡り極寒の土地で開拓に挑戦していたというのに、今度は敗戦のために心血を注いだ土地を捨てて引き上げなければならなくなった。やっと本国に帰ってきたらまたも開拓、そして、今度は旧住民との水利権問題に悩まされるというもの。
新しく開拓地が出来たからと言って川の水が増えるわけではない。むしろ、上流の涵養林たる森を畑に変えたとすれば、水が減る可能性すらある。旧住民たちにとってはそれだけでも重大な問題だ。それを更に自分たちの分け前を減らして、後からやって来たよそ者たちに水の権利を分けるなどもってのほかだ。水の豊かな平地ならまだしも、例えば扇状地のような水の利得が大変な土地では極めてデリケートな問題になる。旧住民にしてみればまさに理不尽と言えるだろう。一方で、命からがら引き上げて来て、ようやく開拓地に入って来た新住民たちにとっては、既得権を手放さない旧住民はエゴイズムの塊に見えることだろう。どちらの気持ちもその側に立って考えれば理解できないものではない。
こうやって考えてみると、「権利」というものは人々の心を揺さぶり煽る何か「魔物」のようでもある。