海洋道中とぴのきよ日記

今日で8月が終わる。僕のとってはこれまでの8月とはずいぶん違うものだった。1日に海洋道中で八丈島に向けて出発してから1ヵ月が経った。今日は午後ににわか雨が降ったが、あの日も午後ににわか雨が降った。ちょうど海洋道中の出発式が始まる頃だった。県庁の中庭に設置されていた海洋道中の受付にやってくる生徒たちは、7月9,10日に一泊二日の事前研修会をともに過ごした間であったが、まだ指導者たちに対してはよそよそしかった。下ろしたての揃いのTシャツは、まだ折り目がついていた。

それから八丈島で過ごし、帰ってきてからも20日が過ぎた。時間が過ぎていくのは早い。事後研修会も終わり、八丈島から来た児童生徒たちも帰っていった。僕のこの「ぴのきよ日記」の内容も次第に海洋道中から離れ、訪れる人の数も減った。
海洋道中に行けと言われ、指導者会議に出るようになってから、野外活動のスキルと体力に自信の無い僕は何か別なことで貢献が出来ないかと考えた。どうも、そうじゃないと他の指導者に迷惑ばかり掛けて終わってしまいそうな気がしたから。海洋道中について知っていくうち、それまで無かった画像による現地報告をブログで実施することを思いついた。これならば体力に頼まないし、まめに更新することを自分に課せば、役に立つかもしれない。自分が同年齢の子どもを持つ親でもあるし、そういうものがあれば子どもの様子を離れていて知ることができて安心だろうと思った。
ぴのきよ日記で最もアクセスが多かったのは、サバイバル踏破の2日目だった。カウンターは700以上も進んだ。海洋道中期間の平均アクセス数は500回/日。海洋道中以前のぴのきよ日記は100回/日ぐらいだったから、単純に400回/日ほど増えた。それが海洋道中の様子を知りたいと思って見ているご家族の訪問数だと思う。参加した生徒数で割れば、8回/日。寝ているときを除いて、2時間おきぐらいにアクセスしていた勘定になる。

このアクセス回数について考えてみた。僕は前にも書いたように、現地では携帯電話の電源節約のためもあってコメントへの返事を書かないでいた。正直なところコメントを書くぐらいに電源の余裕があったとしても、体力と気持ちと時間の余裕が無かったと思う。コメントへの返事が無いにもかかわらず、アクセス数は減らず、むしろ増えていった。だから、コメントへの返事を期待したアクセスではなく、海洋道中のリアルタイム情報を期待してのアクセスであったのは明らかだ。
子どもの安否を知りたいなら公式情報があったから、それで十分知ることができた。でも、2時間おきに情報を見たい理由は、子どもの安否の心配ということ以外にもあったのではないか。伝えられる子どもたちの体験を見て、その写真とわずかな文から、その場所の地形や植生、気温や風、匂い、雰囲気、そんなものを想像し、子どもたちと一緒に海洋道中を追体験していたからではないだろうか。子どもが帰ってきてから、話に花が咲いたということを見聞きした。子どもの土産話を聞くというだけでなく、自分の追体験を子どもの話を通じて確認し、まるで子どもを見守りながら島で暮らし島を歩いたような疑似体験を確認していたのではないだろうか。
ちょっとおおげさな言い方になったけど、図らずもぴのきよ日記を思いの外役立ててくれたご家族があったようだ。やってみて良かった。

僕は4班の担当だったのでどうしても4班の写真が多くなりがちだったし、サバイバル踏破では1班と5班を中心に見ることになっていたので、写真対象が偏りがちになった。ご自分の子どもの姿がほとんど映っていなかったというご家族にはお詫び申し上げたい。ごめんなさい。それでも、他の指導者に理解と協力を頂いて、各班の情報を伝えることができたし、僕の不注意で携帯電話が水没故障しても、自分の携帯電話をずっと貸してくれた指導者もいた。つくづく世話を掛けてしまった。「人様にお世話を掛けないように」なんていう決まり文句があるけれど、僕にとっては、多くの人の世話になって暮らしているっていうことをつくづく分らせられる旅だった。

ぴのきよ日記のアクセス数も数が減り、コメントも無くなった。僕はときどき、島とうがらし醤油を使って豆腐を食べると八丈島のことを思い出す。台風の映像で八丈島が出たときには気になって、映像の中の景色に記憶の中の同じ景色を探している。今日は神湊漁港と藍ヶ江が映った。

八丈島を去った日、港から船が出てしばらくした頃、八丈島を振り返って写真を撮った。もうすっかり遠くなってしまった八丈島は、海と空の間に薄い青色になって見えていた。船が作る波がその方向に向かって続いていた。
あの日から3週間、鮮明に思っていた記憶も少しずつ淡い部分が出始めた。やがてこの写真のように全体が淡い色の記憶になるのかもしれない。